2011年9月11日日曜日

Nuclear

 「核」と「原子力」、日本語って便利なのか不便なのか、
ようするに核反応を人工的に起こし放射性物質を大量に作り出すということでは、
核兵器も原子力発電所も同じだ。違うのは作り出す放射性物質の量が圧倒的に原発の方が多いということ。

 作り出した放射性物質が環境に漏れないようにコントロールできれば原発は安全だし、
核兵器は実際の戦争で使うことがなければ、むしろ戦争抑止に役立つ。

 以上のような理屈で核開発(原子力開発)が世界中でされてきた。

 放射性物質から出る放射能は地球上のあらゆる生命にとってとても危険なものだが、
人類は作り出す技術だけはあるが消滅させる技術はいまだ持っていない。
原発を運転し続ければ核兵器などより遙かに大量の猛毒を地球上に貯め込むことになる。
また核兵器は国際的なコントロールができないほど多くの国家に拡散している。
にもかかわらず戦争はいっこうになくならない。
核兵器が戦争の抑止力になるなど幻想に過ぎない。

 原発の安全神話とか、原子力村という利権ペンタゴン(官、政、産、学、メディア)が批判されるが、
必然の結果としてそんな構造ができたのであって、そもそもの間違いはそんなことではない。

 放射能という猛毒を消す技術をを手にするまで辛抱できずに、
作り出す技術だけを先行したことが間違いだったのだ。

 第二次世界大戦末期に米国で始まった核開発が広島・長崎に繋がり、
その後の多くの核実験に引き継がれ、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故、福島事故、へと
最悪の経験をしても人類はまだまだ核兵器も原発も必要だとしがみついている。
地球上にどれだけ放射性物質を貯め込めば気が済むのだろうか。
 作り出した放射能を無力化する技術もないのに。

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