2011年9月29日木曜日

易しい原発学

 あらゆるメディアで原発に関わる情報が溢れている。
また、講習会ありデモあり、嫌でも原発に関わってしまう。
そんなに原発とは難しいことなんだろうか?

 日本の原発建設に関わってきた普通の技術者の何でもない単純な論理がある。
それは技術者に限らず政治家でも官僚でも学者でも財界人でもマスコミ関係者でも、
あらゆる人が本当はすでに知っていることなんだと思う。

 「原発は事故があることを想定すれば成り立たないものだ」



 全ての問題はこの単純な論理を忘れていることが原因だと思う。

反原発デモがあれば、左翼だとか反米だとか言う人もいるが、
そんな見方はまだ罪がないほうで、もっとひどいのは公害とも言えるような意見がある。

 池田信夫氏の「さようなら大江健三郎」では、
(以下引用)
「経済活動より生命を優先」するなら、大江氏はなぜ自動車の禁止を主張しないのだろうか。福島事故で放射能で死んだ人は1人もいないが、自動車は確実に毎年5000人を殺す。ノーベル賞の権威と「経済的合理性や生産性ばかりにとらわれない理念」をもって、自動車の全面禁止に立ち上がってほしいものだ。
(引用ここまで)
 池田信夫氏は再々、自動車事故や飛行機事故を例えに出して原発を擁護しているが、
自動車も飛行機も、その他全ての機械は事故があることを想定して、安全になるように技術改革をしてきている。
原発は事故があることを想定すれば成り立たないのである。
現場に行って事故原因を究明することも修復することもできないのが福島で証明されている。
だからこそ原発行政では事故が起きることを「想定不適当」という名のもとに安全研究を封殺してきた。

  何故、過去の様々な多くの事故の事実が隠蔽されなければならないのか?

  何故、危険性や安全に問題提起する健全な研究者や技術者を排除しなければならないのか?

  何故、事故を起こした刑事責任を追及する法律がないのか?

「事故がある」ということを想定してはいけないからである。

 エネルギー問題とか環境問題とかその他いろいろな難しい議論をするまでもなく、
「原発」とは事故が起きないという前提の元で全てのことが行われてきたのが日本の実態である。

これから原発をどうすればいいのかを考えるには、
事故があるという前提の元で全てをやり直さなければならないのである。
人間が全く携わらないで、コンピュータとロボットが完全に人間の代わりをしてくれるような時代になれば、
もしかしたら原発は動かせるかも知れないが。

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